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本棚の(本棚と言っても、リンゴ箱を横にして重ねただけの、本のためにあるのではないただの棚の、だけども8割くらいは本が入っているので実質本棚になっているような棚の)いちばん左っかわのいちばんうえにある一箱に、装丁が同じ本が40数冊収まっている。

いつだったか、ヤフオクで購入した夏目漱石全集。
全48巻の漱石全集が1000円という、値付けの基準が全く分からないのですが、そんな値段で、1000円は安い、安いからとりあえず買っておくみたいなことになって家にやってきた40数冊の漱石。

はたしてこれらが読まれることがあったかといえば、まったくなかった。
どうしてだろうか。買ったのだから読みたかったのだし、漱石読みたいし、今から読んでもいいし、じゃあ読むか、ということで本棚の中の漱石を順番に並べ始めることにした。
(仕事から帰ってきて、日を跨いだくらいな、本当ならもう寝た方がいい時間)

全48巻構成というのは巻末に記されていたので、ジグソーパズルを並べるような感じで、これはあっちだあっちがこれだと、バラバラの本を部屋の床に整列させていく。

16冊3列に並び終えてみれば、全部そろっていないと言うことが分かった。欠けているものは1,2巻。全48巻のうち1,2巻。なんとも、おしい。
そうか、だから読み始めなかったのかと合点が行った。せっかく全集をまとめ買いしたのに、はじめから読み進められないんじゃあ何ともな、と思ったに違いない。だから手をつけなかったに違いない。
現に並べ終わった今も、最初が欠けていることに違和感を感じまくっている。

ただきっと、欠けた1,2巻をそろえるのは大変だろうし、いつかもしかしたらそれらにめぐり合うかもしれない機会が訪れるまで待つことよりも、いま、ここで漱石に対峙する機会を逃すこと、そっちのほうが問題だ。と思った。

というわけで、欠けた1,2巻についてはそろえることをあきらめて、文庫本なりなんなりで補完することにいたしまし。

ちなみに、1巻は『坊っちゃん』、2巻は『吾輩は猫である(上)、倫敦塔』でありまして、坊っちゃんについては新潮文庫が本棚にありましたのでいいとして、問題は「猫と倫敦」であり、面倒なのが猫が(上)という分けになっていることでありまして、文庫の猫を買ってしまうと全集の3,4巻が意味ないねというか、決してそんなことはないんだけど、結局そんなことになってしまうのが少しばかり心苦しい。そんなら文庫で切りのよいところまで読んでしまって続きを全集で読めばよいではないかと思われるかもしれないが全くその通りだ。
その通りであるからして、そうすることにして、猫のことは忘れよう。

岩波猫をamazonで注文。

そりゃそうだ、すこしのだぶりもなくそろえる、そんな細かいことに拘っているのも阿呆らしい。というわけで、倫敦塔を買うともれなく幻影の盾その他短編がついてきてしまうという問題についても、他所へ置いておいて岩波倫敦をamazonで注文。
(近くのブックオフにいって探したけれども、猫も倫敦もなかったのです。)

今日帰宅してみたら、ゆうメールで届いた小包が2つ。きたぞきたぞ、猫と倫敦。さあさっそく猫を読み始めるかと、いうところで今は草枕を読み始めているので猫は保留。

猫と倫敦、という言葉の組み合わせは、なんだかそれだけで素敵なかほりが、異国の情緒が、ただよってくるようでいいな。と思った。

はたして倫敦には一体どんな猫がいるのだろうか。

もちろん倫敦なんて訪れたこともなし、ヨーロッパアメリカは愚かお隣の韓国にも行ったことが無い僕にしてみれば、かつ家猫もいないものだから、野良猫というものが世界にただある猫なのであり。猫と言えば野良猫なのであり。

はて倫敦には、ミケ(近所の野良猫)のような野暮ったい感じの猫もいるのだろうか。あの雌猫は餌をくれる人間にしかなつかないから、愛嬌もなし、洒落っ気もなし、女っ気もなしで、倫敦なんて似合いそうも無いものだから、きっと倫敦にはミケなる猫はいないものと思う。

しかし猫は、猫なで声でじゃれついてくるのも可愛くていいが、素っ気ない、つんっとした猫もそれはそれでいい。人に媚びないところが猫らしくてよい、と僕は思うのだけれど、猫らしさとは如何に。

そのあたりは猫を飼ってみてから考えよう。