バルト – 作者の死

「作者の死」という概念を前提において、とある本のテクストそれ自体を読んでいく際に、その前提はどこまで適用されるべきものなのか、という疑問。この疑問自体、発せられるべきものなのか、妥当なものなのかわからない。愚問であるか。

例えば、喪の日記を読む。その際に、この本はフランスの哲学者であるロラン・バルトが母を亡くした喪失感を記したものです。という読み方はどうなんだろうね。ということだと思っている。簡単に言えば。

あくまでも「ある作家が自身の母親を亡くした喪失感を記した本」であって、そこにバルトの存在を介入させてはいけない。

(「させてはいけない」なのか「させすぎてはいけない」なのか。(物語の構造分析は読んでいない))

ということは頭にいれていても、読み進めていく中で「出てきたある言葉」はバルトが他の著書の中でこういう風に言及しているために、この本の中ではこう解釈できる。と読み進めるのはごくごく自然なことで(今まではそういった読み方しかしてこなかったので)、どうしてもそこにバルトの存在が現れてきてしまう。

それは許容されるものなのか。

今読んでいるこの本からバルトの存在を消す、と宣言しながら、目の前のテクストを解釈するために過去のバルトを介入させながら読んでしまう。これは前提を覆していることにならないのか。

ある言葉を解釈するために引いてきた注釈がたまたまバルトのものだった。あくまでも偶然にそうなっただけであって、読者がバルトを呼び出したわけではない。

ある作者の過去から現在までの連関性は認めない、という前提のもとに読み進めるのであれば、あるいは、今読んでいるバルトの本と過去にバルトが残した本(テクスト)は、それぞれ独立した、別個のテクストであって、仮に今読んでいるバルトの本を解釈するために過去のバルトを介入させたとしてもそれは、作者に説明を求めていることにはならない、ということであれば、現在と過去のリンクは許容されるものだと。

バルトは「中性的なもの」の第一回の講義で、こう語っている。「この講義のテーマを決めた時点と講義の準備をしなければならなかった時点との間に、わたしの人生において深刻なできごとか、ひとつの喪が起こりました。『中性的なもの』について語ろうと決めたかつての主体と、これから語ろうとしている主体とは、もはやおなじではないのです。」
喪の日記 解説より

とあるように、当人にとって人生において深刻なできごとが起きた場合(バルトにとってはそれが母の死)、その時点を境にして、当人=主体は別個の存在になる、と言っているように、そうなる可能性がある時点で、現在と過去の作者が同じ主体としてテクストを残した(残せていた)という確信がなくなるために、まったくの別個の主体であるという発想のもとに考えていかなければならないのか。

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