明るい部屋 / バルト – 母と

「写真とは何か」という問いにバルトはどう立ち向かったか。対峙したか。

バルトは、「誰もが認めるいい写真。これは社会的に「意味」のある写真。技術的に優れた写真。」のような一般的な写真から、「写真とは何か」という本質(普遍性。普遍的な答え)を取り出そうとはしなかった。バルトにとって特別なもの、母という存在、その存在を確かに認められる写真から、「写真とは何か」という答えを導き出そうとした。

「バルトの母」という特殊性から普遍性を導き出す。

なぜ、バルトは「私の母親」という特殊性から普遍性へとたどり着けると確信していたのか。

母親は、私にとって特殊(特別)な存在であり、かつ、人間にとって本質的なものである、ということなのではないか。

バルトは母の死により、自分の死が間違いなく訪れることを理解する。そして、自分の死を自覚することで、自分本来の生を取り戻すことになる。

人間の全体性は、「誕生から死」までを意識することで獲得できる。死の自覚は、大切な人の死や、自分の周囲に訪れるな何気ない死の気配など、自分が死ぬのだということを自覚するきっかけによってなされる。「誕生」はどうか。誕生と死。どちらを先に自覚するかという問題ではないが、「死の自覚」を始点にして、自分の誕生までさかのぼっていこうとするかもしれない。自覚された死の地点から時間を逆にたどり、自分の誕生の瞬間へと意識を運んでいく。それによってたどり着くのは疑いようもなく「母」ではないだろうか。私の誕生のきっかけは母親でしかないではないか。

バルトがそう思ったとしたら、「母親」という存在は、人間の全体性におけいて不可欠なものであり、それは本質だ。と考えてもおかしく無いのではないか。

フロイトは、母胎について、<<かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない>>と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しの不安も与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなものであろう。
– 16 欲望をかきたてること

私が今ここに存在していると思えること、つまりそれは、母親(母胎)はたしかにあったという揺るぎない確信となる。

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