写真をめぐる

ロランバルト、明るい部屋の読書会を終えて、つかの間、次は喪の日記へとりかかる。とりかかるといっても、あの本から何を読み取ることができるのか、読み取ればいいのか、読み取るべきか。あまりの痛ましさに、バルトへの同情、安易な共感などは覚えることができるわけもなく、ただただ、バルトが負ってしまった、決して癒えることのない傷口を、その傷口がどのようにしてついたのか、どれだけの深さを持って、痛みを伴ってあり続けるのかを、詳らかにされる読み手の痛み。ここで痛み、という言葉を安易に使ってもよいのなら。

喪の日記を読んでいて、少しきになることがあったので図書館へ行って世界葬祭事典を借りてきた。温室の写真を巡って、時系列に、物事の起こりを正確に把握していくことが本質的なことではなく、とてつもなく無粋な行為であることは承知の上で、それでも、バルトはいつ温室の写真に出会ったか。ということは気になってしまう。確かに、喪の日記のテクストそのままであれば、写真についての本を記念碑として残そうという構想が生じるのは、温室の写真に出会う前、になる。

そもそもとしてあの手記自体が、時系列に沿って正確に記録すること、バルト自身にとって些細なことであれ、瑣末な事象を漏れなく記録することが目的であるわけもなく、例えば、喪の作業の中での恋愛事情なんかは一切触れられることもなく、その行為によって傷を癒すことはできなかったという結果のみ残されているばかりである。

喪の作業の中で、本質的なこと、決定的なことを獲得していくうちに、温室の写真が持つ価値を発見したという方が正しいのではないかと思う。

日本では、一般的に葬儀の際に遺影を飾ることが多いと思う。少なくともぼくが参列した式においてはいずれも遺影が存在していた。故人の写真を探すというのは葬儀を執り行うための一つの準備として必要なことであり、その過程で、故人の過去に触れる機会もあるのではないか。故人の幼い頃の写真を古いアルバムから偶然発見し、それが親の写真であれば、自分が生まれる前のその親の写真から、決定的なこと、を見出すということもあるのでは。その時に見出すことはなくても、一枚一枚過去に遡っていくという行為自体に意味があるのではないか。

世之介が祖母の葬儀のために帰省する。そこで昔の写真を見ては、懐かしい話をして故人を偲ぶ。というシーンも、よくある情景だと思う。

そんなわけで、故人の写真にいつどのように対峙するのか、という点で、フランスの葬送はどのようなものなのだろうということが気になり世界葬祭事典を借りてきた次第。借りてきてからamazonで調べたら、最新 世界の葬祭事典が出版されていた。こちらは図書館になかった。

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