書簡の時代

アントワーヌ・コンパニョン、書簡の時代を読み始めた。

バルトとアントワーヌとの間で交わされた手紙について語るところから始まり、バルトとの出会いを回想していく。

ロランの手紙を取り出し、他の手紙とは異なる運命を付与することなど、まだ自分にはできない身ぶりだ、涜聖行為のように感じられて仕方がない。

初めは講師と聴講者という立場ではあったが、次第に友人と呼べるような関係性になっていくアントワーヌの物語。晩年は友人として交流していたとはいえ、”涜聖”という表現を使うほどにアントワーヌにとってバルトは絶対不可侵な存在であり続けたということか。初めからなのか。徐々に、なのか。何か決定的なことがあったのか。

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手紙を書くという行為は、それがかつて日常的に行われていたものであり、情報技術の発達によって機会が徐々に失われていってしまった、あるいは、選択的にその機会を減じてきた、というものではない。ぼくにとっては。

幼い頃、まださすがにインターネットは家庭内にひかれてはいなかったので文字に認めて思いを伝えることもできたであろうが、いかんせん相手がいない。手紙でしか交流することのできない友人や恋人というものが存在しなかったし、遠方に暮らす親戚もいなかった。夏休み終わりに田舎の祖父母から、夏休みに訪れた一幕をしのぶような豊かな手紙がくることもなければ、下駄箱に淡い手紙が届くこともなかった。

書き慣れていないだけに、あえて手紙を、というふうにはなかなかならない。書き方をそもそもしらない。

歳をとるごとに、知り合いはほうぼうに散って行き、なかなか会えない人もいる。しかしながらそういった人たちとの交流の手段はもっぱらインターネットを介した電子的なもので、手紙ではない。

先日の西村さんの聞く力の話。相手の気持ちを読み取ることの難しさを痛感した。相手が発する言葉を理解するだけでは足りない。表情や仕草、間の取り方、語尾、言葉そのものには乗らないもの、気持ちが発するものを感じ取らないといけない。手紙の場合はどうか。

だれの筆跡なのか、ほとんどのものは見分けがつく。数名の同じ文通相手から定期的に手紙が来ていたからだ。それぞれの筆跡が、心の動きを表しているようだ。


ロランは批評を一種の小説に、または一つのエクリチュールに、自立した一個の文学にしようとしていたからだ。

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