ディスクール

読書メモ

コンパニョン曰くこの本は、バルトが自らの意思で構想を練り、書き上げた唯一の書籍であると。恋愛のディスクールの後に出した遺作である「明るい部屋」も出版社から写真に関する本を書いてくれという依頼を受けたのがはじまりであるという。もちろんそれは単なるきっかけにすぎず、依頼の有無を論じることには意味がないと思う。

明るい部屋」でバルトは、唯一確かな存在から、普遍的な写真の本質を導き出そうとした。母親の本質を世間一般の共通認識に還元することは決してせずに。

この書物はどのように作られているか

恋するものを単なる症候主体に還元するのではなく、むしろ、その声にあって何が現実離れしたものであるのか、何が手に負えぬものであるかを聞きてるるようにすること。かずある先例にならわず、一次言語の働きにのみ依拠するという「演劇型」方法が選択された

と書いているように、ここでも(むしろこちらの方がはやいが)普遍的な何者かに還元しない、という前提のもとに言述していっている。

ディスクールを記述する模擬物を用意し、そこに基本的人称を与え、わたしとして発話させ、バルトはそれを彼と呼ぶ。その人称の扱い方が、批評、日記、物語、それらから小説へと移行していく過程とみるのも、なるほど興味深い。「新たな生のほうへ」の石川美子さんのあとがきが非常に面白い。これだけでも、「新たな生のほうへ」は一読の価値がある。

1フィギュール

ディスクールとは、本来的には、奔走であり策謀である。

わたしである彼が恋に奔走し、走り回る中で偶発的な状況に触れて起こる発作的言語活動がディスクール。その言語活動の断片がフィギュールであるといっている。ギリシャ語で言うスケーマ(DBでいうスキーマ?)

偶発的に起こる発作的な言語活動の断片がフィギュールである。フィギュールは意味にとらわれるものではなく、ポーズ、フォームのようなもの。スポーツに励み自己を消耗するように、恋するものの作業中の「姿」であると。

愛の国の地図とは

書籍内では詳細に言及されてはいないが、フランス貴族の中ではやった恋愛ゲームのようである。恋愛の道程を地図上にプロットし、連続的に、決まった道筋を示し、恋する主体を駒にして如何様に進めていくかを楽しんだようだ。ここでは、恋愛主体は偶発的に事を起こしていくことができない。決まったコースをいかにして進んでいくかということに専念せざるを得ない。この地図を進む限り、偶発的で分布的であるフィギュールが生まれることは無い。

バルトにとっては、愛の国の地図というゲームはナンセンスなものに移るだろうか。

2.順序

フィギュールには論理的なシークエンスはない。まったく無秩序で、偶然で、全体のメロディから切り離された単独の音。いかなる論理もフィギュールとフィギュールを結合しない、隣り合うこともない。分布的であり、統合的でない。恋愛のフィギュールには連続性も、規則性もない。「愛の国の地図」とはまったく様相の異なるもの。

恋愛物語とは、恋するものが世間と和解するために支払わねばならぬ租税なのだ。

自身の物語が、一般世論で共有されている認識へと還元されることを望む。世間と和解。

ある出来事に触発された「苦悶」の状態。その次には何がやってくるか。「苦悶」から解放される状態へと上昇するか、ひたすら苦悶の状態が引き伸ばされるか。

ある数学者が言うところの「怪物を産み出す偶然の力」

一般世論は還元されることを望む 怪物、普遍性への還元か 分布しているはずなのに、いつも同じ結末であったり、展開を迎えるような、運命的な、宿命的な結果のことか

 

怪物とは、本来が恋愛についての確認しか期待すべきでないフィギュール群に、ある種の順序が与えられることで生じる「恋愛哲学」であっただろう。

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