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2018年8月19日 日曜日

時間がたって、19日の記録を、今日、28日に書き起こしている。ちょっとしたメモを頼りに19日に起こったあれこれを文字に起こしていく。引き続き吉田修一のウォーターゲームを読みすすめる。それは大事なこと。ぼくにとっては大事なことでもちろん覚えている。だけど19日がどんな天気だったか、まずそれを思い出して日付の横に「日曜日 晴れ」、あるいは雨、曇り、雷、なんて書きたかったのに、それも大事なことなのに、端からそれすらもできず少し落ち込む。過去の天気予報をさかのぼれば、いつどこでどんな天気だったかなんてすぐに調べられるが、それをするのもなんだろうか。思い出せなかった、ということを残しておく。

ホテルの中庭では、月一で開催されているらしい「ワインと映画の夕べ」というイベントの真っ最中で、屋外のスクリーンに映し出されている映画の音声がプールサイドにも微かに聞こえてくる。吉田修一 / ウォーターゲーム p194

妻が奥の部屋へ入ろうとすると、娘の笑い声がした。どうやら鍵穴からこっちを覗いていたらしい。吉田修一 / ウォーターゲーム p209

所用あり、大宮へ。アルシェの下、イベントスペースでアイドルがライブをしていた。小さなライブスペース。大勢の人。駅を出てすぐに人だかりができているくらいだから、結構有名なアイドルなのだろうか。4人か5人組みの女性アイドル(それすらも覚えていない)で、歌って踊ってのパフォーマンスをしていたが、決して歌がうまいかというとそうでもなく、エプロンのようなおそろいの衣装でゆるゆるとダンスをしていた。衣装にはなんらかテーマがあるようで、各人のカラーが与えられていて、エプロン(おそらく)の胸元には、1人はうさぎ、1人はいちご、ひとりは、なんだったか、思い出せないが、野菜か何かがはり付けられていたように思う。動物と、動物でないものと、食べ物と、コンセプトが良くわからなかった。アイドルといっても、年のころはもしかしたらぼくとそう変わらないかもしれない。

用を済ませ、空いた時間で喫茶店へ。老舗の喫茶店のよう。店構えも、それなりに時間の流れを感じさせる。店内は薄暗く、快晴の今日、照りつける日差しがまぶしく、店の中がまったく見えない。様子がわからない。入るかどうかすこし逡巡。意を決して入店すると、常連客が一人、テレビを見ながらマスターと談笑していた。よくある光景。威勢のいい「はい、いらっしゃいませ」という声。およそ喫茶店らしくない張りのある、つやのある声で、居酒屋か何かのような迎え入れ方。その「いらっしゃいませい」、ではなく「はい、いらっしゃいませ」があまりにも整った、乱れの無い挨拶だったので、ノンプレイヤーキャラクターから返ってくる吹き出しのよう。30年という時間をかけて、完璧な、一分の隙もない「いらっしゃいませ」が完成した、という感じ。しばらくして常連客が立ち去ったあと、テレビが消される。これもよくある光景。入店してすぐだされたおしぼりは、しぼれば滴りそうなほどの冷水を含んでいて、重さも感触もはじめてのおしぼりだった。30年を経てこのおしぼりに行き着いたのかと思うと感慨深い。店内でウォーターゲームの続きを読む。

「きれいな馬」とマッグローは外を指差した。<中略>「ニーチェが発狂した理由を知ってますわよね?」「御者に虐待されている馬を見たせいって、あの話?」吉田修一 / ウォーターゲーム p220

この話どこかで読んだことがある。バルトの「温室の写真」で読んだ気がする。と、本を手にとって該当の箇所を探すも見つからない。馬、というキーワードでヴィクトリア女王の写真が思い浮かんだが、ニーチェの話はその部分とは関係がなさそうだ。23章、写真に与えら得れた見えない場、について語る下りでヴァージニア・ウルフの写真を引用して言る。ニーチェの話はここではなかった。まなざしについて。写真のなかのまなざしについての話でニーチェと馬の下りが書かれていたのではなかったかと、思い出すも、46章「まなざし」にはこの話はかかれていなかった。結局見つけられなかった。

店内には、2014年のカレンダー。30周年記念のペナントとポスター。茶色くなった胡蝶蘭。日に焼けた胡蝶蘭は、あそこにどれくらいの時間おかれているのか。胡蝶蘭がいつまでも花を咲かせぶらさげているわけもなく、それにしては、鉢も、胡蝶蘭もしっかり時間が経過しているのに花だけは、茶色く放っているがしっかりと咲いている。作り物か?本物か?ぱっとみて偽者にも見えない。不思議な感覚。

田岡は子供の頃にみた「セブン」という映画を思い出す。映画の中で、あるベテラン刑事が夜中に大学の図書館へ調べ物に向かう。たしかBGMで、バッハの「G線上のアリア」がかかっている。吉田修一 / ウォーターゲーム p239

視界に入らない位置に店主が座っている。ぐるっと見渡しても見当たらないが、店主の息遣いと、たまにずずっとすするはなの音から、そこに確かにいることが感じられる。たしかにそこにいる。けれど、こちらからはその姿は見えない。そう広くはない喫茶店のちょうど対角線の、ちょうどレジの裏にあたる柱のかげにいる。その距離感が絶妙。30年のなせる技。

晩御飯は、無水鍋カレー。

元号の検討会が始まる。というようなニュース。

2018年8月20日 月曜日

朝から具合が悪い。不快な目覚め。仕事。「記憶の冴え」というワード。伊集院光とラジオと。

夜。駅のコンコースに大きなスーツケースが、ひとつ。近くに持ち主らしき人は見当たらない。結構な大きさのもの。ただでかいだけなら、大きなスーツケースだなと思うだけで終わるのだが、それが、それだけでそこにあるというのがちょっと不気味で、人通りのはげしい帰宅時間の駅前に、スーツケースがぽつんと置かれていて、その存在にみんな気がついているからぶつからないように避けて通るのだけれど、その異様さにだれも意識を向けず、あるいは向けないように、違和感に気を取られないようにそそくさと通り過ぎる感じがまた気持ち悪かった。あの中は何だ?とても危険な何か、例えば爆弾であるとか、それもないとは言い切れないだろうし、あるいは、全身タトゥーの女がでてくるのかもしれないし。

東海道線が人身事故でいつも通りの帰り道コースを辿れず、乗り換え振替で混雑の中を帰らなければならないのかと一瞬うんざりする気持ちにはなったが、不思議とその苛立ちもどこえやらで、そのあとふらっと乗った電車が家とは逆の方面だったことにもしばらく気がつかず、気が付いたあとも、あーやってしまった、あーもうやだ、なんて日だ、という気持ちにもならず、数駅進んだところで反対方向の、家へと向かう電車がくるホームへ移動し、折り返し電車に乗り換え、逆に、すこし遠くまで進んでいたものだから席が空いていて座ることができたり、これならゆっくり本でも読みながら帰れるなと返っていい気分になったりもしていて、じゃあ電車の中でゆっくり本を読んでいたかというと、まったく、一ページも本を開くことはなく、今朝の電車の中で、今日の帰りの時間で読み終わるだろう、ついに最後までたどり着けるぞと言うところまで読んでいた「冬の夜一人の旅人が」の文庫本を一ページも開かずに、何をしていたか、サイアノタイプの引き伸ばし方法についての情報を集め出して、紫外線域の光を放射する、それなりに明るいランプがやはり必要で、それでも光源と印画紙はかなり近づけた上で、結構な時間を要するよ、つまるところ、とてつもない時間をかければ、引き伸ばし機でサイアノタイププリントもできるんだけど、本当にそれやるのか?とっても効率が悪いし、引き伸ばしたい人はデジタルネガを作るのがいまの主流だし、そうでなければシノゴ、バイテンへとネガ自体の大きさをあげるのが、やっぱり普通だけど、どうしても引き伸ばしたいの?そのメリットあんまりないと思うけど?というようなやりとりがなされている海外のスレッドを見て、そんなムードの中でもぼくはエンラージしたいんです、どうにかこうにかやるだけのアドバイスを、というレスがあったり、そこまでいうなら、ある程度コストもかかるのは承知で、重水素ランプあるいは水銀ランプを用意して、UVミラーを用意してできるだけ光量を強める工夫をすればいいんじゃないか、なんて情報を閲覧していて気がついたらもうつく頃になっていた。

重水素ランプ。水銀ランプ。

2018年8月21日 火曜日

躓いて思わず舌打ちをしそうになる。「舌打ち」という言葉で連想されるあの人。繰り返し繰り返し、「舌打ち」という語が想起されるたびに、あらわれるものだから、その関連付けの強度がどんどん増していく。もうよっぽどのことが無い限り、そのリンクは切れそうにない。意図的に別のものに上書きしていくにしても、上塗りしていくにしても、そのような行為に意識的に取り組んでいたという痕跡があるだけに結果的により忘れがたいものになりそう。

すみだトリフォニーホール。久石譲のコンサート。

昨年に続き今年も見に来ることができた。会場入り口手前、もうすぐもぎられる、というところで僕の前を歩いていた女性がチケットを落とした。ひらり。ひらり。優雅に。すぐに拾い、自分がチケットを落としたことに気がつかず歩いていくその女性を呼び止め、チケットを差し出すも、あ、どうも、といった具合のリアクションにとどまる。拾ってもらっておいてそのリアクションはいかがなものか、まったく無愛想であり、もう少し感謝の気持ちをあらわすべきでは、とかそういう問題の話ではなく、今日はこれから待ちに待った久石譲のコンサートで、年に一度の祭典のようなこの日に体調も仕事も一切問題にならないように調整をかけて来ているだろうし、それなのに、万が一にも落としたチケットを誰も拾ってはくれず、あるいは拾おうにも意地悪な風が吹こうものならそのまま彼女はもぎりの前で、さっきまで確かに手に持っていた、手帳にはさんでいたはずのチケットが無いことに気づき、どうすることもできず、呆然としてしまったかもしれないのに、無事に拾われたチケットを手にした彼女に一切のあせりの表情も、動揺も見られず、こっちが拍子抜けしてしまった。

キキズデリバリー。ジャジーなアレンジで、あれはなんてパーカッションなのか、、シャカぱか鳴っていたあの楽器。音楽の知識がなさすぎる。シャカぱかしてるあれ。

魔女の宅急便を聞いて、いつも決まって思い出されるのは、小学校のころのぼく。給食の後の掃除の時間。10分か、15分か、20分か、その間、全校に魔女の宅急便が流れ、生徒たちは、その音楽に、あの音楽の、ゆったりとした優雅なメロディにあわせてふざけながら掃除をする。それが毎日のこと。あのころを思い出す。それと、給食をよくばって、大変に欲張って、食べきるまで片付けませんと先生にしかられ、はんべそ書きながら、いや、もう涙を流してた、涙を流しながら、全べそで、ぐちゃぐちゃになりながらひとりぽつんと給食を食べる、あのとても恥ずかしい景色が思い出される。思い出すだけでひりひりしてくる。

作家の代表曲、とよべるような作品は、やっぱり他の作品とは違うように思われる。他の小品なんて言い方をしたら悪いかもしれないが、聞き馴染みのある、誰にとっても何らか自身の体験に、ちいさな体験であっても、思い出や経験に紐付いて刷り込まれている作品に出会うと、体がそわっとする。今日もそうだった。

2018年8月22日 水曜日

溶けるアイス。たべながら帰宅。日本語を勉強中という、インド、イラン系の店員さんが働くコンビニへ。ゆうパックの配送をするために。ゆうパックの対応が初めてだったらしく、サイズを測るための巻尺がどこにあるのか、そのありかを探すところから始まった。それでも、不思議と嫌な気持ちにはならない。不思議と。彼らはどこか楽しそう。これが日本人の店員だったら、きっとおそらく、たった数分間ではあれ、待たされているのだ、という心地の良くない感情を抱いてしまっただろう。

2018年8月23日 木曜日

奥日光へいく。快晴。車窓からの景色はおそよ期待した通りの、なだらかな、穏やかな景色。だけども明日からの天気はあまり良くない。台風の影響で雨が降ることは確実だ。一日ゆっくりと。旅館の中で過ごすのも悪くはない。雨に打たれての露天風呂。少年時代の一幕を思い出す。雨の日の。

旅館に行くシャトルバスの中で、美のひとつの答え、に遭遇する。雨の音と肉の焼ける音。

2018年8月24日 金曜日

台風で雨。午前中は屋内待機。旅館で雨をしのぐ。午後から湯元へ。平日ということもあり人はいない。釣り人が数人と、外国からの旅行客がまばらに。それから中禅寺湖に下り、中禅寺へ参る。

2018年8月25日 土曜日

日光最終日。東照宮。日光の滝をめぐる。林間学校で日光の滝を見たことを思い出す。思い出すといっても、自分が体験した場面を鮮烈に思い出すということではなく、幾度も見たことのある卒業文集の一枚、雨合羽を着て滝の水しぶきを間近に浴びているあの写真、その写真に自分が写っていることで、その場所で自分がそういった体験をしたことを確認した、ということを再認識する、という感じ。その滝は華厳の滝だ、と勝手に思い込んでいたが、今日実際に華厳の滝を見に行って、あのとき見た(と写真から確認される)滝はこれではないということがわかった。ではあの滝はなんだったか。選択肢を消していった結果、あれは湯滝だったのではという結論に至る。あれは湯滝だったのか、という回答を頭の中で導き出しても、全然と言っていいほどに納得がいっていない。写真からわかる確かなものが記憶と結びついていないから、ただしいと思われる回答を前にしてももやもやするばかり。いつか実家に帰った時にまたあの写真を見てみよう。

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