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2018年9月3日 月曜日 曇り

閉店間近、といってもまだ二時間はある、ミスタードーナッツ。バルトの続きを読み進める。ミスタードーナットの、ちょうどいいノイズ感がなかなかに心地が良くて、手前にあるスターバックスは素通りして、ここに来ることが多い。気がする。この時間になると、より雰囲気が、僕にとっての雰囲気の良さが高まる。スターバックスは賑やかすぎる。ミスタードーナッツで頼むのは決まってハニーチュロ。いついってもハニーチュロ。他に浮気はしない。ハニーチュロと何か、は頼むが、ハニーチュロなしの何か、は頼まない。絶対。しかしながらこの時間になると、しなしなの、ふにゃふにゃなそれしかない。残念でならない。

「イメージ」の変質とは、相手のことでわたしが恥しい思いをするときに起こると言えるかもしれない。パイドロスにによれば、まさしくそうした恥へのおそれこそ、ギリシャの恋人たちを「善」の道につなぎとめるものであったという。42 恋愛のディスクール

「恥」という感覚。

傷つけることのおぞましさは、失うことの苦悩よりもなおいっそう強い。46 恋愛のディスクール

わたしの愛する他者、わたしを魅了する他者はアトポスである。わたしにはその人を分類することができない。それがまさしく「唯一者」であり、わたしの特別な欲望に奇跡的なまでに呼応する特別の「イメージ」であるからだ。わたしの真実のフィギュールであり、ステレオタイプ(他の人たちの真実)をもってしてはついに捉えがたいものなのである。54 恋愛のディスクール

隣の女性が勉強をしていた。ぼくが隣に座るまではピンと気を張らせて教科書とノートに対峙していた。隣に人がすっと、カフェの隣り合わせの、パーソナルスペースすれすれのあの距離感に、すっと入って来ると否が応でも、センサーが反応すると言うか、そう言う感覚だったのだろうか、もう彼女の集中力はぷつりと切れた。

あの人の輝くばかりの独自性を前にして、わたしはついに自分をアトポスと感じることがない。むしろ、分類されたもの(周知の資料かなにかのように)と感じるのだ。57 恋愛のディスクール

獲得すべきは関係の独自性なのだ。心の板では、そのほとんどがステレオタイプな関係から生じるものである。わたしはみんなと同じように恋をしなければならない、みんなと同じように嫉妬し、見捨てられ、望みを奪われなければならない。しかし、二人の関係が独自のものであるなら、そのとき、ステレオタイプは、ゆさぶられ、乗り越えられ、撤去される。57 恋愛のディスクール

徹底的に、ステレオタイプなものに捉えられることに対する抵抗。還元されることへの抵抗感。

「わたしは待つものである。」これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。62 恋愛のディスクール

松山千春。

しかし、ひとつの情熱を完全に隠しておくなど、到底考えられぬことである。人間の意志があまりにも弱いものだからではなく、そもそも情熱とあうものが、その本質からして、見られるためにできているものだからだ。隠していること自体がみられるのでなければならない。わたしが今なにかを隠していることをわかってください。66 恋愛のディスクール

9月5日 水曜日

台風一過。コープの日。先週注文するのを忘れてしまったので今日はしっかりと。やることをやる。今日もはじめてのandroidちょっとすすめる。

9月8日 土曜日

恥と電車と。

充足した恋人は、書くことも、伝達することも、再現することも、まったく必要としないのである 恋愛のディスクール p85

わたしは二つの選択肢の間に滑り込もうとするのだ、と。つまり、希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは…あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。93 恋愛のディスクール

ウェルテルをはじめて読んだ時の気持ちは今となってはもう正確には思い出せないけれど、おそらく、恥ずかしい、というような感覚だったのではないか。そこにぼくがいる。わたしがいる。

恋愛主体たるわたしには、目新しいもの、心を乱すものは、すべて、事実としてではなく、解釈を下すべき記号として受けとれるのだ。94 恋愛のディスクール

青山壱番館という珈琲専門店を見つける。そこから少し進んだところにはアンドサンドイッチ。という店。佇まいの異なる店。一方は外に列ができるほどの賑わい。一方は閑散としている。閑散としている。

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