39/52 2018

9月23日 日曜日

國分功一郎さんの講演を聞きに駒場東大前へ。こんなに面白い人だとは思わなかった。

能動態と受動態の対立の前に、能動態と中動態の対立があった。中動態に(いまでいう)受動態がふくまれていた。能動態と中動態の対立を考えるときに、いま私たちが持っている「能動-受動」のパースペクティブの中で「能動-中動」の対立構造を定義することはできない。今の「能動」と「中動」の対立なのではなく、「能動-中動」の対立の中での「能動」を再定義することからしないといけない。

意思決定支援から欲望形成支援。へ。近代になって作られた「意志」という概念によって、「能動-受動」の対立はあたかも普遍的なものであるかのように認識されているが果たしてそうなのか。

ひとつの結果に対する因果関係は、当事者に閉じられるものではない。結果に至るまでに影響を及ぼした様々な要因が存在する。が、それらを一つ一つつまびらかにし、遡り、分析し考察していくことは、非生産的と思われる。いかに効率よく因果関係の鎖を断ち切って、結果に対する原因を簡潔明瞭なものとして提示するか、そこに「意志」という概念をもちこんで、「意志」に伴う「責任」を当事者にだけ押し付ける形で、際限のない因果の連鎖をばっさりと切断してしまった。この「責任」のあり方がはたして正しいものなのか。正しいものであると、すくなくとも、いまを生きる人たちは感じている。「意志」と「責任」のあり方を考え直す必要があるのではないか。「責任」=「responsibility」=「応答可能性」。中動態のある世界とは。

学生ですか?と聞かれる。もうそんな歳ではないが、そう言われることが多々ある。最近になって。

9月24日 月曜日

銀座のギャラリーへ。救いの場。普段目にするギャラリーとは、その役割が、存在感が異なっていた。こういう場もあるのだなと知る。

9月26日 水曜日

気がついたらリュックが水浸しになっていた。気がついたら、気がついたのは、足首のあたりがなんだか冷たい、水滴が足首に落ちてきている、ことに気づき、スラックスも同時に濡れていることを確かめ、ここは電車内なのにどこから水滴が、雨が降り出してきて、雨に濡れた誰かの傘から水滴が滴ってきているのではと、はっとして頭上を見ても、座っているのはボックス席の通路側なので頭上に網棚はなく、そもそも今日は雨は降っていない。スラックスがびちょびちょだ。はっとしてリュックの中を覗く。麦茶が全部ぶちまけられていた。リュックの中で財布が浮いていた。人生の中で、飲み物がリュックの中にぶちまけられる、という経験を、3回か、もうすこし、5回くらいは経験、という風な定めが人間にあるとしたら、今日はその一回分の体験チケットを消費したことになるが、チケットを使うタイミングとしてはいいものだったのではないかと思う。財布は水浸しにはなったが、それでも今日のリュックの中は空っぽに近かったから。本も入れていなかった。

伊集院光とらじおと。AIについて、マイノリティリポート、のような世界。どういう筋道をたどった結果なのか説明はできないが、あなたは、今後あなた自身が犯罪を犯すことになるか、あるいはなんらかの犯罪に巻き込まれる可能性が高い、ということがAIによる分析によって明らかになっています。なので、気をつけてくださいね。と、いうやりとりがすでに行われているという。

チャーハン味のカップ焼きそばを食べた。思ったよりもチャーハン味だった。困った時のどん兵衛から浮気してしまったが、またしても、今日ははずれはしなかった。また食べたいかと言うとそれほどでもないが、はずれはしなかった。いつぞやの辛いだけのまぜそばとは大違い。

図書館の返却ボックスの前で一礼をするサラリーマン。

9月27日 木曜日

吐瀉物に群がるカラス。雨に濡れて毛羽立つ羽。全身。間近を通り過ぎた。

近代、実証の哲学へ。、ベンサムの功利主義、合理的に一切を計算できる経済人を前提とする経済科学。近似値こそ実証哲学の思考態度。コント、観察の哲学。普遍学としての数学をモデルに理性哲学を構築しない。

定岡正二。つい先日、ふとおもいだしてしらべたばかり。今日のラジオにでるらしい。

9月28日 金曜日

能動態と受動態という対立の外側にあるものは何か。

名称の問題。

インドヨーロッパ語とはそもそも何か。ラテン語はギリシャ語よりも新しい?どのように生まれたのか?プラトンやアリストテレスの言語研究には態に関する記述は見られない。

中動態を持つ言語が、中動態でしか指し示せない観念を有していたことはむしろ当然であろう。アリストテレスの時代に、受動態は中動態と並んでいる。中動態はインドヨーロッパ語には存在していた。

ストア派。3つの態が提示されている。この時点で中動態とは、という定義が困難になっている。

格とは

愛による最初の拉致(あの純粋に催眠的な瞬間)もまた、ディスクール以前に起こり、意識というプロセニウム(舞台)の背後で起こっている。

恋愛のディスクール ロランバルト p141


まさしく中動態ではないかと思った。好きになる。好きになろうとしてなるものではない。好きにさせるものでもい。あるときすでに、好きになっている。無意識。

ちゅう‐みつ【稠密】チウ‥
(「稠」も密の意)
①すき間なく多く集まってこみあっていること。「人家の―する地域」「人口―」
②細かく緻密であること。「―な研究」

作家として、自分が作家だと思っているものとして、わたしは、言語の効力について自分を持つあざむきつづけている。

恋愛のディスクール ロランバルト p149

たとえば苦痛という語、その語をもって苦痛であることを表現しようとしたところで、その語は何も表現しない、何も伝達はしない、苦痛という、言葉の普遍的な、共通な意味に還元したところでそれは意味がない、が、何も伝達しないことはわかっていながら書かざるを得ない、

アルカイック【archaïque フランス】
古拙な。古風な。アーケイック。

メルクマール【Merkmal ドイツ】
目印。指標。

ディオニシオス・トラクスのテクネー。ストア派からアレクサンドリア学派へ。この時点では、中動態は、能動と受動に従属するものとして扱われる。メソテース。

ギリシアの文法書。翻訳の際にアクティブ、パッシブとなる。

後に発展したラテン語翻訳に基づく伝統を、その伝統以前のテクストに投影することになってしまう。それではこれらの語が何を意味しようとしているのかを探れない

9月29日 土曜日

鴛鴦歌合戦をみた。

ボタンに芍薬柳腰。
桜に姫百合梅藤どころかまだまだほめてもほめたらぬ。

あなたの素晴らしさを言葉で言い表そうと、どれだけの語を積み重ねてみたところで、私が感じているあなたの素晴らしさを表現することはできない。素晴らしい、と、その語を発することしかできない。バルト

絵日傘を書いていても武士は武士
二言はござらん

yまとおもえぼもえばやmでんし
ゆめをえがいたたんゆうの

ビルケンシュトック、ボストンを修理に出す。ソールがだいぶすり減っていたようだ。いたようだ、というのは先日、ジャレンを買いにお店に寄ったところ、その日はいていたボストンを確認した店員さんが、そろそろソールの方があれな感じなので、このまま吐き続けてコルクの方まですり減ってしまうと修理の方が結構大変なあれになってしまうので、よろしければ早めに修理に持ち込みしていただいた方があれかと思いますよ、ということを伝えてくれたので。お昼はバナナとコーンフレーク。

台湾写真表現の今。東京藝術大学での展示を見に行く。様々な社会問題、あるいは個人的に抱えている問題・現象を捉え開示する手段として写真を活用している。移民の問題。

見ようとすれば見えるものに、気がついていないのか、見ないようにしているのか。見てみぬふりをすることが大人になること、であるならば、ぼくは大人にも、子供にもなれない、中途半端なやつなのかも。それすらも飲み込むことが大人になるということか。という、大人とか、子供とか、社会人とかそうでないとかはどうでもよくって、目の前にある、嫌なことにあなたはどうしますか?、という。ただそれだけなのに、わたしはこどもだから、大人だから、というレッテルをほしがる。安全だから。

今日の上野はいつもとは少し違う。台風が迫る関東。東京も1日雨。大雨の中のパレードは、どこか神秘的で、なにか、うごいてる、なんにも知らない人が、通りすがりの人がとらわれる、あの円から発せられる磁場みたいなものにとらわれてしばし動けなくなる。何かがうごいてる、うごかされてる、というのがわかる。

二重の欠如イコール2つの不幸

転移。フロイト。精神分析療法を行なっているうちに、患者が過去に親などに抱いていた感情をそのまま医師やカウンセラーに向けること。陽性のものと陰性のものとがある。

フェード‐アウト【fade-out】
映画や演劇で、場面が次第に暗くなり消えていくこと。溶暗。また、音楽などの音が次第に小さくなっていくこと。

み‐つ・める【見詰める】
他下一 みつ・む(下二)
視線をはずさず見つづける。凝視する。「穴のあくほど―・める」「相手を―・め返す」

「語り手」の祖母は、母の死の寸前に、眼も見えず耳も聞こえぬ状態になっている。もはや自分の孫もまからず、「うたぐり深く、気むずかしげな、驚いたような様子で」彼のことを見つめている。プルースト

眼も見えず。見つめるとは。なにか。バルトの恋愛に関する言述をよみ、あるあると身震いし、それをもってわたしはあなたのことを愛している、愛せているのだという結論に至るのは、どうなのか。

あの人の疲れのことが、わたしに残された唯一のかんしんごととなる。

恋愛のディスクール ロラン・バルト p174

今日も青山壱番館。六時にお店を出てもくてきちにむかうのが、ちょうどよい。パーソナルスペース。適度な騒がしさ。無関心。無関心からくる心地よさ。というのもあるのだろう。ある。

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