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2018/09/30 日曜日

国際子ども図書館で、午後の集合時間までの空いた時間を過ごす。ホセ・マリア・シシリアの「アクシデントという名の国」をみる。声、音を形にする。悲痛な音の中に、消えゆく叫びが聞こえてくるのだろうか。もしそうだとしたら。その声がもう記憶のものだとしたら。「声とは、たちまちにして記憶と化すもの、それ以外にありようのないものと思える。」。次第に消えゆく、フェイディングしてゆく声は、「愛する人の消失を実証し、読み取らせ、いわば完遂させることになるのは、その声なのだ」

テイストオブジャズ。今週は青木さんの回。ジャズトークメモ。毎回照れる青木さん。もう何年やってらっしゃるのか。というツッコミ。先日は白人ジャズ特集。ブルースにはフォークとか、カントリーとかあるけど、スタンダードは国民全体が好き。ビング・クロスビーとか。しかしながら黒人はそうはいかない。白人社会で受け入れられないというのがやはりある。最初は黒人のビリーエクスタイン。次はジミーラッシング。ヘビーな黒人らしい歌の世界。ビリーからその後の時代でジョーウィリアムスが一般的に広がった。やっぱり歌の端々に黒人らしいニュアンスがある。それが大事。「カム・レイン・オア・カム・シャイン」のカウントベイシーオーケストラもいかにもベイシーらしい。スイング感、ダイナミック感。圧倒的に受け入れられたのはナットキングコール。有無を言わせぬ美しさ。特徴は丁寧な歌いかた。白人の上流階級にも入り込んだ。フォーリングラブ。有名なスターダスト。ナットキングコールは50−60年代に圧倒的人気があった。ポップも歌う。全米の人気歌手になった。ジャズというエリアで唯一愛されているボーカリストでは。この一枚。他は聞かなくてもいい。ジョニーハート。ジョンコルトレーン・ジョニーハートマン。ジョニーハートマンとコルトレーンではなくコルトレーンとジョニーハートマン。ハートマンはそれほど有名ではないのにどうしてこんな組み合わせができたのか。奇跡的。

タイムフリーでテイストオブジャズをきいて、吉永小百合さんのラジオへ。休みが終わるぞという感じ。今週は思い出の童謡。三木露風作の赤とんぼ。イントロがかかり、気象情報が差し込まれる。とりなおし。「ゆうやけこやけの赤とんぼ」これが2番だった、というのを知る。

10月1日 月曜日

遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さへこそゆるがるれ

炒飯を食べる、たびに、さみだれをあつめてはやしもがちゃーはん。が思い出される。この関連付けができている、ということを一度意識してしまったが最後、もう忘れることができないと思う。できるなら忘れさせてほしい。

半分青いがおわった。「いま」を物語るのに、震災を語らずして抜きには何も語れない、のかもしれない。こと東北においては。あの日を境にいろんなものと見方が変わった。あるいは、あなたの見方は変わったのか?と問われている。よう。

10月2日 火曜日

イヤホンを忘れたのか。スマートフォンのスピーカーをこれでもかというほど耳に近づけ、競馬の実況を聞く男。駅のコンコースは帰宅ラッシュで大勢の人。にぎわい。ちょっとの音量ではいくら耳元でyoutubeを再生していても競馬実況を細かく聞き取ることはできないだろう。だから、ものすごい音量で聞いている。競馬実況を鳴らしている。もうすぐ改札を抜けて電車に乗るだろうに、いまここで、どうしても聞かないといけないレースとは、なんなのか。どういったものなのか。

片方だけのソール。

はじめてのandroid。4章
イニシャライザ。Kotlinのプライマリコンストラクタは処理を行えないので、そのほかの処理を行いたい場合はイニシャライザを使う。クラスの継承。class クラス名(プライマリコンストラクタ):親クラス名(コンストラクタ引数)。継承先であるクラスのプライマリコンストラクタではvalやvarをつけない。敬称元となるクラスにすでにプロパティがあるから。インターフェイスの実装。クラスの継承と同じやりかた。class classname(primary construct): interfacename。インターフェースを実装してクラスを作る。メソッドをオーバーライドする場合はoverride修飾子。型チェックとスマートキャスト。対象オブジェクト is チェックしたい型名。チェック後の明示的なキャストが不要。
オブジェクト式。

10月3日 水曜日


男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎。29歳の松坂慶子さん。冒頭の夢シーンでいきなりヒロイン登場パターン。今回から満男が中村隼人くんから吉岡秀隆へチェンジ。ここまでよく付き合ってくれたなという感じ。だって、近所の子供なんでしょ。俳優さんではなく。

10月5日 金曜日

100分で名著。赤毛のアン。今回からアナウンサーが変わった。以前まで出演されていた島津さんは、医者になるためにアナウンサーを辞めたらしい。神谷さんの「生きがいについて」を読んだことで、自分の人生はかくあるべきか、と考えるきかっけになったそうだ。名著によって人生が変わった、というのを、体現。自分にしてみても、何がきっかけでどうなることか、わからない。

10月6日 土曜日

週末。中動態について、読み進める。二章の途中から。

メソテース。主語がその状態にあり続けている。
完了時制に置かれることで異なる意味を獲得する。
これが受動とされているが、能動ではないというにすぎない。

中動態は、むかしからあった。中動態という命名の歴史こそ一つの問題。

古代の文法研究まで遡る。テクネーそのものではなく、テクネーを能動受動のパースペクティブにおきかえる反復参照があったのでは。

3章 意味論
ハワードジョージの論文。中動態に言及しているが、その前提は能動受動の対立。そのパースペクティブありき。このパースペクティブ自体の問い直しではない。既存のパースペクティブで中動態を扱う、神秘化することで、能動受動の対立はより普遍的なものになってしまう。

エポイエーサメーン つくる

中動態の示す動作は主語に作用を及ぼすことを含意している。馬をつなぐのが、これからその馬に乗るであろう主人自身か、あるいは召使いか。

中動態を定義したいのならば、今の能動受動のパースペクティブを一度括弧にいれないといけない。しかしながらいまのパースペクティブは意識的に採用したものではない。ラトガーアランの意味論的地図。中動態を多義的なものとして扱い、それらに共通するものを取り出そうとした。

パースペクティブをかえる。能動中動態とした場合、その能動も今のパースペクティブの能動ではない。はずだ。バンヴェニストだけが、能動自体を再定義している。言語の変化の歴史は社会の変化の歴史である。能動であるか受動であるかのパースペクティブでみることとなったときにも、中動態のみをとる動詞群が特殊な動詞グループとしてあつかわれているということは、中動態でしか表せない観念があることを意味している。

するかされるかではなく、主語が過程の外にあるか内にあるか。

状態にあるという意味から、一回性の行為や出来事をよみとれば、それは受動的な解釈ができる。

中動態という名前を捨てるということは、中動態をめぐる歴史を回避することになってしまう。誤解の歴史を身にまとった中動態という古名が使われ続けなければならない。

マックをでる。

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