マイファブリーズ

2018 41/52

10月7日 日曜日

ナポリの窯がうまい。

中動態の世界。四章。言語と思考について。

能動態と中動態の別とはなにか。中動態とは何か。というひとつの解としてのバンヴェニスト。

能動態と中動態の対立に見出されるのは、主語が、動詞によって示される過程の外にあるか内にあるかの区別である。中動態は動詞の示す過程の内に主語が位置づけられる事態を示し、能動態はその過程が主語の外で完遂する自体を示す。

中動態の世界 國分功一郎

ここまで國分さんはバンヴェニストの定義を引いて考察を続けているが、3章にもあったように、中動態を定義する試みはなにもバンヴェニスだけが取り組んだものというのではない。たとえば、ギルダースリーブ、ブルークマン、メイエ、リヨンらも、中動態は如何なるものかという思索を試みている。しかしながらバンヴェニストだけは、中動態はこうであるという考察をすると同時に、能動態自体の意味を再定義し、そのうえで能動態と中動態の対立構造を模索した。いまを生きるわたしたちが、当たり前のように思い描く能動-受動の対立というパースペクティブを前提として意味を定義するのではなく、普遍的ともいえるこのパースペクティブを超越した地点から、能動態と中動態双方の意味を捉えようとした。

われわれは意志を選択の源泉として眺めることに慣れてしまっている。だが、たえざる努力を重ねて何ごとかを始めようとする意志なるものは、ギリシア人たちにとってはまったくなじみのない概念であった。

意志=主体が客体に対して有する現実的な意向。

意志がないとはつまりどういうことか、

行為者が自らの行為の源泉であるという考えがない。ジャン=ピエール・ヴェルナン

言語と思考が、何らかの関係を持つことを前提にしているが、それはいかなる関係なのかを四章で、バンヴェニストの論文とそれに対する批判を持って考察していく。

言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する、つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。

バンヴェニストは思考を言語に還元している。という

言語決定論。ソシュール言語学を単純化し、すなわち言語が直接に思考を決定づけるという考え。記号、シーニュはシニフィアンとシニフィエで成り立っている。オオカミというシニフィアンがあることで、オオカミとイヌを区別できる。

ギリシャ語における存在という観念、言語が、”在る”という客体可能な概念とすることを可能にした。これにより哲学的な考察は、この概念を操作、分析、位置づけることができた。しかしながらこれはギリシア語においては、ということであり、たとえばトーゴ語で話されるエウェ語では、存在という観念は異なる同士で担われている、すなわち、ギリシア語の用法は決して普遍的なものではない、ということは、言語構造が。。。

哲学は、中動態を抑圧することで自らを構成した

店を移動。

ぼくにはひろにすべて忘れられるだろうからこその気楽さがあった。 

愛が嫌い 町屋良平 文學界7月号115

だれかからの伝聞で得た情報なのだが、人間は十歳前後の記憶をおもいだすことにもっともよろこびを感じる生き物なのだという。

時折自分野小学生時代のことを思い出すが、決まって、というか多くの場合に思い出されるのはどちらかというと、あまり思い出したくないような、できるなら引き出しの奥にそっとしまっておいておきたいような記憶だったりする。積極的に忘れてしまいたいかというとそうではないし、引き出しの奥にしまわれているなにかがあったきがするな、という類のそれだ。

べつになにか理由があって自分が泣いているわけではないと、知っていた。感情が泣いているから自分も泣いているだけで、理由をいえるのなら泣く必要なんてないとおもえた。

10月10日 水曜日

目前の便不便とか、一時の利不利とかいふような事でチヤホヤ騒がれては困ることではないかと思ふ

子規の死んだやうに死にたくはないが、子規の生きたやうには生きたい。

剣道の防具を、体の覆い隠すようなおおきさの防具袋を背中に背負い、防具に足が生えたような出で立ちの、少女。防具袋にしまわれたファブリーズが顔を出している。顔、というよりはもう半身、以上、はみ出している。出掛かり、落ちかかり。そのファブリーズには、黒のマジックでデカデカと自分の名前が書かれていた。ファブリーズに名前を書く必要があるのか、いやある。剣道部においてファブリーズは、なくてはならないもので、練習の前に後に、とりあえずファブリーズをこれでもかと散布する。実際の効果云々ではなく、もう撒かずにはいられない。みんなで使い回していたらあっというまに空っぽになる。これは私のファブリーズである。使うべからず。と、示すことになんらおかしいところはない。

10月12日 金曜日

主人公の独白のみで構成された小説。こういうのはなになにてきである、というような分類が存在するのでしょうか。
講評はこちらにあるとか

souvenir

最終回だけよんだ。いままでのストーリーは全く知らずに、いよいよおわりをむかえるというところで、ふたりの、ふたりの家族のやりとりをみてとても不安な気持ちになる。もしかしたら、ぼくもこうなのかもしれないというような恐怖
。油断したら泣いてしまいそうなほど。

石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ

10月14日 土曜日

価値観の変化、=、過去の批判、切り捨てにしかならないのか。そうすることでしか、まえにすさめないのに、多様性とは、どちらのたしかにそこにある、と認識する、存在を認めることはできないのか。

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